1970年代の半ば、日本ボクシング界に、
とんでもない才能を持った新進気鋭が現れました。
その名を具志堅用高。沖縄の石垣島に生まれた、この小柄なボクサーは、
高い運動能力を活かしたラッシュ戦法を武器に、
デビュー9戦目にして、WBAジュニアフライ級王座を獲得、
瞬く間にスターダムへと昇り詰めていったのです。
22歳の若きチャンピオン具志堅用高が、
王座防衛記録を積み重ねていた1977年、
その名を馬名の由来とする一頭のサラブレッドがデビューします。
冠名に、具志堅の名が加わった、インターグシケンが、その馬。
6月札幌の新馬戦でデビュー勝ちを飾ったインターグシケンは、
関西のホープとして期待を集めることになったのですが、
デイリー杯3歳S、阪神3歳S (いずれも当時のレース名) を続けて
2着に惜敗するなど、KO勝利を重ねる本家、具志堅用高のようには、
スカっと行かなかったのです。
3歳2月のきさらぎ賞で重賞初制覇を飾り、
春のクラシックレースに挑んだインターグシケン。
しかし、皐月賞は、追い込んで届かずファンタストの2着、
ダービーでは直線で伸びず、サクラショウリの6着と、
やはりビッグタイトルには縁がないままでした。
そして3歳秋、ついにインターグシケンは、
具志堅用高と肩を並べるチャンプの座に就きます。
具志堅が日本記録を更新する
5連続KO防衛を成し遂げた後に行われた菊花賞で、
見事、3分6秒2のレコード勝利を飾ったのです。
菊花賞で示した、スケールの大きなレース振りから、
古馬になってからのインターグシケンは、本家、具志堅用高のような、
絶対的なチャンピオンになることも期待されていました。
ところが、4歳緒戦の金杯 (西) に勝利した後、
脚部不安を発症したインターグシケンは、長期休養を余儀なくされます。
その後、競走に復帰したものの、失った輝きは取り戻せず、
1979年暮れの有馬記念で、
グリーングラスの13着に大敗したのを最後に現役を退きました。
結局のところ、インターグシケンは、
3年半に渡り王座を守り、日本最多記録となる13度の防衛を果たした
具志堅用高のようには、なれませんでした。
それでも、菊花賞で示した競走馬インターグシケンの輝きは、
具志堅用高が放つフィニッシュブローのように、
後世に語る継がれるべきものだったのです。
(次回は10月27日の水曜日にお届けします) 構成・文/関口隆哉