2009年10月01日
こんにちは。
秋最初のG1レースが迫ってきました。
タイキシャトルを世界に通用するスピード馬に育て上げた
藤澤和雄調教師が愛馬シャトルをさしおいて
日本最強スプリンターと認める馬がいました。
日本でいちばん強かったスプリンターといえば
1980年代に活躍したニホンピロウイナーだと思う。
1200メートルは4戦4勝、
1400メートルでも6戦5勝という戦績だった。
当時、1200メートルのG1はなかったが、
マイルでも強く安田記念(85年)や
マイルチャンピオンシップ(84,85年)でも勝ったし、
あのシンボリルドルフがギャロップダイナに敗れた
2000メートルの天皇賞で差のない3着に来たときは、
本当にすごい馬だなと思った。
この強いニホンピロウイナーがスプリンターズSに
勝ってもいなければ出走すらしていません。
古老にいわせると当時のスプリンターズSは
「なんてことのないタダの重賞」ということらしかったです。
84年から現在のグレード制が導入されましたが、
このレースは普通のG3競走でした。
ほぼ同時期に地元の阪神ではG2マイラーズCがあり、
わざわざ中山のG3に出かける理由がなかったのでしょうね。
希代の名スプリンターの凄さも悲劇も
このあたりに秘められていたような気がします。
グレード制が導入されても“八大競走”への尊敬と憧れは
まだ根強く日本のホースマンの間に残っていた時代です。
ダービー、皐月賞、菊花賞、桜花賞、オークスのクラシックに
春秋の天皇賞と有馬記念が“八大競走”として公認され、
最高峰のレースとして君臨していました。
短距離レースの価値は一段低く見られてと思います。
この短距離馬不遇に時代に現われた天才スプリンター、
それがニホンピロウイナーでした。
だから彼は自らの強さを証明するためには、
守備範囲を超えた天皇賞で力走するしかなかったのでしょう。
現在のように短距離レースの体系が確立されていたら
タイキシャトルをスプリンターとして育てたかもしれない
と藤澤先生は述懐しています。
ニホンピロウイナーも時代やレース体系が違えば、
また別の強さやパフォーマンスを見せてくれたのでしょうか。
きょうも来てくださってありがとうございます。
あすもまたスプリンターズSネタをお届けします。
どうぞよろしくお願いします。