| 山本オーナー=藤澤調教師のコンビは 試行錯誤の末に 4世代目にしてカジノドライヴにめぐり合う。 さて、今回はその顛末を…。 |
駿 | 日高で幽霊伝説が囁かれたり、 セリ市でマクトゥーム一族に 小気味いい啖呵を切ったり、 山本=藤澤コンビは 八面六臂の活躍をつづけるわけですが、 最初はなかなか成果に恵まれませんでした。 |
俊 | 強い馬が出たら海外に行こうではなく、 はじめから海外をめざして馬を選び、 育て、レースを使っていくというのは、 まったく次元の違う話ですから、 最初の5年間は勉強の期間だと思っていました。 走ってほしい気持ちは当然ありますが、 走らなくても焦りみたいなものはなかったですね。 |
駿 | カジノドライヴは4世代目ですね。 |
俊 | 思いがけず早くいい馬にめぐり合えました。 キーンランドのセプテンバーセールで 藤澤先生が選んでくれました。当時は兄の ジャジルがベルモントSを勝った直後でしたが、 フロック視されていた面もあって、 それにその年はダンチヒのラストクロップが 大注目されていてカジノドライヴは、 なんだか盲点みたいになっていましたね。 ずいぶん安く買えたと思います。 |
駿 | その時点では、まだ兄妹連覇とかの話はまだなくて、 国民的な人気を集めるほどでもなかった。 ところが姉ラグストゥリッチーズが ベルモントSを勝ってしまった。 しかも勝った相手というのが、 その年のブリーダーズCを圧勝し、 翌年のドバイワールドCまで制覇することになる 最強馬カーリンだった。これはもう大変だ。 |
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俊 | 私は東京競馬場のモニターで中継を見ていました。 ラグストゥリッチーズが勝った瞬間、 もうアメリカに行くしかないなと覚悟を決めました。 カジノが挑戦するのは宿命みたいなものですね。 そうでなければ向こうのファンが許さない(笑)。 |
駿 | それにしても日本でのキャリアが1戦しかない馬を よくアメリカまで連れて行きましたね。 |
俊 | デビュー前に転倒して怪我を負ったり、 出国前はインフルエンザ騒動の関係で 隔離期間を長くとらないといけなかったり というアクシデントがあった。 それで1回しか実戦に使えなかったんです。 藤澤先生もそりゃ、本心としてはもう何戦か 走らせてから行きたかったと思います。 |
駿 | 普通はそういうアクシデントがあったら 今回は辞めておこうか? となりそうなもの。 オーナーや藤澤先生に不安はなかったのですか? |
俊 | そりゃ、不安もありましたよ。 いや、不安だらけだったといってよいかもしれない。 ピーターパンSだって果たしてどのくらい通用するか まったく分からないでしょう。 藤澤先生も自分も不安で一杯で、 4コーナーにいくまで二人ともかたまっていました。 でも、直線に向いてから藤澤先生は 「行けー!」「ワンツーだあぁぁぁっ!」 って大声を張り上げていました(笑)。 |
駿 | 不安で一杯だったのが一転して日本調教馬として 初めてのアメリカダート重賞勝ちがみえてきた。 そりゃ、興奮して当然でしょう。 山本オーナーも声が出たんじゃないですか? |
俊 | それがね、私はそうでもなかった。後から先生にも どうしてあんなに冷静でいられたんです? って聞かれたけど、私個人は勝ち負けより 本当にベルモントSへ行く力を見せられるのかと、 けっこうクールにレースを眺めていました。 だから嬉しいというより 「あぁ、これで胸を張って行ける」 ってホッとした気持ちの方が強かったですね。 |
| (このつづきは4日(月)に掲載します) |